2008年4月28日月曜日

Fate/klaidliner プリズマ☆イリヤ

今日読んだ本の中で特別心に残った一冊がある。

『Fate/klaidliner プリズマ☆イリヤ
漫画・ひろやまひろし/原作:Fate/stay night(TYPE MOON) 
企画原案:TYPEMOON

である。

一読して言葉もなかった。
すばらしい!時代はここまで来たのかと嬉しくなる。
内容を一言で紹介するならFate/stay nightのスピンオフコミック、ということになるのだろうが、このブッ飛び様はどうだ?
カレイドステッキが紆余曲折を経て「アインツさん家のイリヤさん」の手に渡り、街の平和を脅かす謎の暴走黒化サーヴァントと戦う―同人誌かよ!と笑顔で突っ込むボク(笑)
まあ、あのイリヤが・・・イリヤが笑顔でシロウと一緒に暮らしている様を見れるだけでもボクは満足でちゅー・・・イリヤ、どうか、いつまでもいつまでも幸せに・・・あれ?戦ってる?! (笑)

冗談はさておき、スピンオフとしてはキャラクターの扱い、設定の遊びなど、程よい加減でよくまとまっていると思う。手堅い、と表現しても良いのではないだろうか。

さっき、「ブッ飛び・・・」などと評しておいて、何を・・・とも思うが。

さらに一冊の本として、だけでない価値がある。
アンソロジーやコミカライズではなく、スピンオフ作品が単体アイテムとして出版される、それも(こう言っては何だが)著名な作家によるものではなく、である。

例えば、手塚治虫作品の翻案を浦沢直樹が書いたものが出版されるのは必然であろう。

教養とは一面で原典を引く能力である。
それはとりもなおさず、(少なくともある階層において)原典が共有されている事の現れであり、一つの成熟した文化が存在することの証でもある。
オタクというものが時代の生み出した酔狂ではなく、時を経て、文化として共有されていく。
幾星霜か後、未来の志士達は月旦にFate/stay nightを使うのかもしれない。
「かの男は、シロウの誠実さと、ランサーの洒脱を二つながら持っているような人物だ」などと。
無論、これは妄想にすぎず、他の良識あるFate/stay nightファンにとっては迷惑な仮定でしかないかもしれない。しかし、少なくとも、「Fate/stay nightが終わっても、誰かがそれを繋いでいく。」この事実は、全てのFate/stay nightファンにとって喜ばしいことではないだろうか?

もちろん、Fate/stay nightが終わったかどうかは僕ごときが判断するようなことではない。
あるいは、正当続編があるのかもしれない。
それを期待する感情とは別の話として理解されたい。

まあ、相変わらず偉そうな事を綴っているが、僕にとってこの作品の価値の根源はイリヤが笑っていることにある。
時と場所が違えば、こんなにも楽しそうに笑えるのだ。
その事を思い、Unlimited Blade Worksのあの場面とか、Heaven's Feelのその場面を想うとき、涙すら零れてくるのである。
オタクとしての僕が、この評を締めくくる言葉は一つ

がんばれ!魔法少女プリズマ☆イリヤ!

2008年4月26日土曜日

自分というもの一

自分という、この度し難いものについて考えることがよくある。
若い頃は―と言う表現は忸怩たるものがあるがな(笑)―哲学や思想の本を読み散らかしたこともあり、それなりに刺激的な体験ではあったが、自分に適用する事はできなかったように思う。
ましてや、自分を陶冶したり、改善(?)したりするために役に立った事は少ない。(ゼロではない。)

ちなみに、問題があるのは無論のこと読み手側であって、哲学を愛する方々はこのような駄文に惑わされる必要はない。
また、興味のある若い方には触れてみることをおすすめする。
ただし、”図解”や”二時間でわかる”といった品のないタイトルの本は避けること。
素晴らしい読書とは、とかく時間と労力のかかる体験なのである。

自分とはなんだろうか?
―と、書き出すのは大げさであり、傲慢でもあるかもしれない。
僕が知りたいのは、自分の中に満ちている日々の生活に干渉する粘ついた情感の正体であり、できうるなら、それを克服することによって、現状よりましな人間になりたいということなのである。
もちろん、この粘ついた情感とそれを克服しようとする理性―そんな素晴らしいものが自分にあるとは到底思えないが、他に適当な語彙がないため、やむなくそう呼称する―のどちらが自分の本体かは不分明である。しかし、そのことは僕の興味からははずれる。

粘ついた情感とはどんなものであろうか?
いや、この”?”は趣味が悪い(笑)
僕にとっては質問するまでもなく、皮膚のすぐ裏側に張り付いているものなのだから。
まあ、公開している以上、最低限の説明はなされるべきであろう。

最低限の文章力があるかは措く。おそらくは無いであろう。ここまで読み進んでいる方には同情と賞賛の念を禁じえないが―では、なぜ僕はそんなものを綴るだけでなく、公開しているのであろうか?

実例を挙げよう。
休日、眼が覚めたとき、今日の予定を考えたとする。
何か自分が変化する可能性があること、日々の生活を整頓、よりよく生きるためにの―つまりは面倒で気が進まない事を実行する必要があると仮定する。
(まあ、常に必要はあるのだがな。)
必要であるならば、実行すればよい。あとは、優先順位の問題である。
これが理性の回答であり、僕にとっての理想である。
しかし、粘ついた情感の出す回答は、変化したところでしかたない、整頓したところで再び乱れるのは必然、よりよく生きるなどというのは幻想であり、つまるところ生きるなどというのは生命の維持と快楽の追求に他ならないではないか―という優しい囁きなのである。
しかして、僕は今日も読みなれた本を愛撫しつつ、惰眠を貪るのだ。

―もっとも、この自嘲も自らを飾る綺羅でしかない。
可能な限り客観的に見て、僕の生活は残念ながら無頼を気取るほど怠惰ではない。もちろん、成功者と呼ばれるほど勤勉でもない。つまるところ、単なる市井の一市民にすぎない。
”惰眠”をはじめとする極端な用語は僕を語るに相応しくないのだが、用語の吟味を現状以上に厳密にすると、この文章を綴る愉悦が減衰されてしまう。
よって、こだわらず、自分に酔ったまま、綴らせていただくことにする。

せめても、新しい本を読むならば、救いもあるというものだが・・・。
さて、この粘ついた情感を、なぜ支配しえないのか、あるいは駆逐しえないのか?
理性に従って行動しえないのはなぜだろうか?

2008年4月24日木曜日

はじめてみた


なんとなくはじめてみた。
(丁寧語で綴ったほうが穏当かもしれないが、書きやすい文体を使わせてもらうことにする。
 ご了承願いたい。)

”ふらぱんけ”は、フライングパンケーキからとった。
ストライカーズ1945Ⅱで愛機だったんだよね~。
唸れ!バスタァー・・・レェエザアァァ!とか、ゲーセンで呟いてた頃が懐かしい(笑)
LV3だと自機と同じ太さになって”七鍵守護神”状態で燃えるんだよ・・・。

まあ、他人に見せる価値のある文章とも思えぬが、自分のためにのんびり更新していきたい。